剥ぎ取られた壁画(2005.03.08)

 前回の「負の遺産」で、世界遺産について紹介したが、ユネスコの世界遺産に登録するということはそれを後世に伝える義務を負うことでもある。その「おまけの後書き」で簡単に紹介した「NHKスペシャル 新シルクロード」の第2集「トルファン 灼熱の大画廊」で、龍谷大学とNHKの共同作業によるベゼクリク千仏洞第15号窟の壁画のデジタル復元を紹介していたので、今回はその話から始めて、文化財保護の問題について触れてみたい。
 ベゼクリク千仏洞は、6世紀頃から造営が始まり、ウイグル仏教が絶頂期を迎えた11世紀頃には、極彩色の壁画で彩られていたが、今ここを訪れても壁画はほとんど残っていない。それは、イスラム教徒による破壊(註1)と近代欧州列強がこぞってこれらの壁画を剥ぎ取って持ち帰ったためである(註2)。大きな壁画が何枚にも切り離され、それぞれの国の博物館に納められた。色々理屈はつけられようが、先進国による掠奪(りゃくだつ)であることに違いはない。もしこれらがすべて現存し、その所在が分かれば、それらをつなぎあわせれば元の壁画を復元できることになる(註3)。番組では、ロシアのエルミタージュ美術館、ドイツのインド美術博物館、インドのニューデリー国立博物館、韓国国立中央博物館、そして東京国立博物館に壁画を探し求める。
 なぜ今日「先進国」といわれる欧州列強が美術品の掠奪を国策として行ったかといえば、「先進国」というのは総じて文化的「後進国」であったからだ。語弊があるとすれば、「新参者」といいかえてもよい。自国の悠久の歴史を語る文化財が無いのである。古代文明発祥の地ではない未開の辺境の地だったのだから、当然のことである。日本にしても同じようなことがいえる。たとえ、奈良・平安の文化が華開いたと自慢したところで、あるいはさらにそれ以前の縄文・弥生・古墳時代にも文明があったといったところで、それよりさらに過去に遡って、遥かに高度な文明が隣の中国で華開き、朝鮮半島に伝わり、そのあとでようやく日本にもたらされたことはいうまでもないことである。奈良・平安時代以降、大陸文化の影響を受けながらもようやく自国の文化を育んできたのである。
 日本人は邪馬台国が好きだ。中国の歴史書(『三国志』の「魏志倭人伝」)に記載されていることから、我が国最古の外国が公式に認めた国家といえよう。ところが、肝心の日本で邪馬台国がどこにあったのか、つまり実在を証明する証拠が見つかっていない。だからどうしても見つけたい。「邪馬台国」は日本古代史の永遠のテーマなのである(註4)。
 今回は歴史を語ることが目的ではないので、このあたりにしておくが、文化財の所有権は一体誰にあるのだろうか? 最近、掠奪された文化財の返還を求める動きが目立つようになってきた。『大英博物館』といえば、自他共に認める「人類の至宝」を所蔵している世界最大の博物館の一つである。なかでも、ロゼッタ・ストーンを始めとするエジプト文明の数々の文化財やギリシャ文明の象徴的存在であるパルテノン神殿の大理石の彫刻の数々が有名である。パルテノン神殿の大理石の彫刻は、それを持ち帰ったエルギン卿にちなんで、「エルギン・マーブル」と呼ばれている。このエルギン・マーブルの返還をギリシャが要求している。今のところ、『大英博物館』はそれに応じる様子はない。もしそれに応じれば、ほとんどすべての所蔵品について元の所有国が返還を要求し、いずれ『大英博物館』は空っぽになってしまう。「世界遺産」を保護するユネスコのシンボルマークがパルテノン神殿というのは、何とも皮肉な巡り合わせというべきか。
 ベゼクリク千仏洞の壁画もそういう欧州列強がこぞって奪い合った文化財の一つである。しかも、大きな壁画が切り刻まれて持ち去られたのだから、なおさら痛ましい。持ち去った側の責任として、少なくとも修復・保護の義務を負うのではなかろうか? 今回のデジタル復元は、失われた文化財そのものを復元することはできないまでも、元の姿を想像させるに十分であった。日本がリーダーシップを発揮できる国際貢献の一つであろう。
 さて、我が国でも壁画の剥ぎ取りが話題になっている。「負の遺産」でも紹介したキトラ古墳の壁画である。実は「剥ぎ取り保存」という最終手段が選択されたのには訳があった。キトラ古墳からわずか1キロほどのところに、30年も前に極彩色の壁画が発見されたもう一つの古墳がある。高松塚古墳である。調査後、当時としては考えられるかぎりの保存処置をして石室は再び封印されたが、最近になって、壁画の劣化・損傷が予想以上に進んでいることが判明し、現代の科学技術をもってしても一度開けてしまった石室を元の状態で保存することがいかに困難であるかを図らずも露呈してしまった(註5)。キトラ古墳の壁画も浮き上がっている部分があることや開封によるカビの繁殖など、早急な対策が迫られた。文化財の「現地保存が原則」の立場から反対意見もあったが、高松塚古墳の二の舞いを避けるには「剥ぎ取り保存」が最善の手段であるという結論に達し、昨年の8月から順次剥ぎ取りが始まった。これまでのところ、剥ぎ取り作業は順調に進んでいる(註6)。
 ベゼクリク千仏洞の壁画は、今となっては元の壁画を復元することは不可能で、デジタル復元しか方法が無いかも知れないが、キトラ古墳の壁画はデジタル復元ではなく、現物の保存が期待されている。いつか、博物館で実物を見学できる日もあるかもしれない。一握りの専門家が調査のために石室内で見るのとは違い、多くの人がそれを見ることの意義は計り知れない(註7)。しかも自国の文化遺産を保護するのだから、ベゼクリク千仏洞の壁画とは事情が違う。
 ただ、高松塚古墳やキトラ古墳は我が国の文化遺産に違いないが、壁画を描いたのは渡来人(あるいはその子孫)であったと考えられ、オリジナリティーを自慢できるものとはいえまい(註8)。さらに、石室の壁画というものは本来、被葬者ひとりのために描かれたもので、千何百年後の人の目に触れることは想定していなかった。長い眠りから突然たたき起こされ、傷つけられ、剥ぎ取られるとは夢にも思っていなかったことだろう。
 どちらの例も、人間の欲望や驕り(おごり)によって、貴重な文化遺産がいかに無残にあっけなく、傷つき失われていくのかを教えてくれている。文化遺産を現状のまま後世に伝えていくにはどのような対策が必要か、現状のまま保存することが難しいとすればどのような方法が可能なのかを今真剣に考える必要がある。
註1: アフガニスタンのバーミヤンの石仏破壊でも良く知られているように、イスラム教は偶像崇拝を禁止している。
註2: 欧州列強に混じって、日本の探検隊も組織された。西本願寺第22代門主、大谷光瑞(こうずい)が組織した大谷探検隊がそれである。壁画のデジタル復元に関わっている龍谷大学は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が創立した大学である。龍谷大学では、大谷探検隊の100周年記念事業を2001年から3年間にわたって行った。大谷探検隊は欧州列強が国策として行った調査・探検(という名の掠奪)とは趣(おもむき)を異にし、若い僧を中心に組織された、宗教的目的に基づくものであった。その点は認めるにしても、「剥ぎ取り」の責任は免れまい。大谷探検隊の収集品は韓国国立中央博物館と東京国立博物館に収蔵されている。
註3: 残念ながら、ドイツのインド美術博物館に収蔵されていた壁画のほとんどは、第二次世界大戦のベルリン空爆で失われてしまった。
註4: 邪馬台国を扱った本は次から次に出版され、それが結構売れている。私も何冊か持っている。試しに、インターネットの書籍検索で「邪馬台国」を検索してみると、300を越える本がリストアップされる。ここ数年を見ても毎年十数冊出版されている。「邪馬台国」の所在地がどこか気になってしょうがない人には、岡田英弘著『歴史とはなにか(文春新書)』をお勧めする。まあ、そういう人はもうとっくにこの本も読んでいるでしょうね。私は岡田氏の説が決定版に近いと思っている。それでも納得しがたい方は、幻の邪馬台国探しのゲームを続けることです。
註5: 高松塚古墳の壁画の劣化・損傷が進んでいる兆候は、文化庁が1987年に出した報告書に掲載された写真ですでに見られていたにもかかわらず、そのことが報告書に記載されず、対策も取らずに放置されていたことが明らかとなり、文化庁の対応の拙さが問われる事態となった。
註6: 四神像のうちすでに白虎の胴体部分や青竜などの剥ぎ取りに成功している。その様子が昨年11月『NHKスペシャル 石室開封〜キトラ古墳・壁画修復への挑戦〜』で放映された。屏風や掛け軸などの絵画修復のベテランである山本記子(のりこ)さん(東京文化財研究所)らのチームが狭い石室内で長時間にわたる手作業で壁画を慎重に剥がしていく。高さ1.1メートルの石室内では立っただけで天井の星宿図を傷つけてしまう恐れがある。根気のいる仕事だ。石室内からは被葬者のものと思われる歯が見つかっている。その鑑定の結果、熟年から老年の男性であることが判明している。番組ではこれを手掛りに、被葬者の候補についても言及していた。それによれば、百済王、大伴御行(おおとものみゆき)、多治比嶋(たじひのしま)、阿倍御主人(あべのみうし)の4人が候補として残った。 キトラ古墳のある場所が阿部山と呼ばれることから、阿倍御主人の可能性が高いというのが、前回「負の遺産」で紹介した推理だ。番組作りに協力した考古学の専門家が誰なのか見落としたが、ここまで絞り込むというのはかなり大胆である。というのは、番組では高齢者ということで、このころ亡くなった60歳以上という条件で、この4人が残ったのだが、歯の鑑定からは熟年から老年とされ、40歳代も十分に可能性として残るというのが専門家の間の見解。阿倍御主人が有力な候補者のひとりであることには間違いないが、まだまだ確実なことがいえる段階ではない。天武天皇の皇子である高市皇子と考える学者もいる。阿倍御主人説は、私のような『竹取物語』ファンには嬉しい見解ではあるが、番組作り上のエンターテインメントと受け止めておこう。ちなみに、阿倍御主人説を支持する白石太一郎氏(奈良大学教授)は、高松塚古墳の被葬者を石上麻呂(いそのかみのまろ)と考える。石上麻呂も『竹取物語』の5人の貴公子のモデルのひとりである(『竹取物語』では石上まろたり)。ついでにいっておくと、大伴御行と多治比嶋も貴公子のモデルである。
註7: 剥ぎ取り保存された壁画が将来どのように公開されるのかは分からない。
註8: 井沢元彦氏は、韓国や中国が日本との関係史を歪曲(わいきょく)・捏造(ねつぞう)していると非難し、これを改めないかぎり、正しい歴史認識、それに基づく正常な関係の構築は難しいということを、数々の事例・証拠を挙げて主張している。多くの点において正当な主張のように思われるが、なかには首をかしげる箇所も見受けられる。たとえば、『逆説のアジア史紀行(小学館)』で、「古代において文化はすべて韓国が教えてやって日本の独自性はまったくない」という韓国の主張に対する反証についての記述。「技術的には奈良の大仏という、朝鮮は言うに及ばず中国ですら成し得なかった巨大金銅仏の造立、また世界のどこにもない国民歌集『万葉集』の存在、その基礎を成す「カナ文字」の創造の三つを挙げておけば充分だろう」と力説しているが、「負の遺産」で大仏の鋳造に関わった百済系渡来人を紹介したが、大仏鋳造事業の総監督は国中連君麻呂(くになかのむらじきみまろ)という百済系技術者であり、大仏殿の建築も、猪名部百世(いなべのももよ)ら新羅系技術者であったことを見落としていないだろうか? 確かに、中国でも朝鮮半島でも巨大金銅仏が鋳造されていないが、それは技術の問題ではなく、国家的「ヴィジョン」としてそのようなものを造ることが発案されなかったのであり、技術的問題であったとは到底考えられない。国家プロジェクトとしてそれをなしえたのは日本だけで、それを発案したのは聖武天皇であったことは間違いないとしても、「技術的には」という点では、ほとんど渡来人に依存していることが記録からも明らかだ。そういう点は正当に評価すべきであろう。「かな」の発明が日本文化の画期であったことは間違いない。これなくしてはその後の日本文化の発展はあり得なかったであろう。井沢氏は「『カナ文字』の創造」を日本の三大(?)独自性の一つに挙げたうえで、「韓民族文化の誇り」と韓国人が自慢する「ハングル」は元は「訓民正音」といい、「文字」ではなく「発音記号」であるとばっさり切る。この指摘も「かな」と比較してどうだろう。「かな」も漢字を崩して、あるいは一部を取って作った「発音記号」ではないか。「仮名」は「真名(=漢字)」に対する呼び名で、「仮の文字」ということであり、音(おん)を表すのだから「発音記号」と等価である。「かな」を発明したと自慢したところでしれている。「仮名」だと控えめにいっている謙虚さが偉いとでもいうのだろうか? いえることは、「ハングル」が発明されるより数百年も早く「かな」を発明した日本は、それだけ早く文化的に自立することに成功し、そのことが幸運であったということだ。「ハングル」を揶揄(やゆ)するのはお門違いだ。
後書き
 前回も脚註が長かったが、今回も本編に匹敵するほどの脚註を付けた。「本当は脚註の方が書きたいことなのでは?」という【鋭い】ご指摘も受けた。そういう側面も否定しない。好きなように読んでいただければ結構である。

付記その1(2005.03.14):キトラ古墳の被葬者について、石室に残されていた歯と骨の鑑定から、50歳代の男性の可能性が高まったと報道された。新聞は、これにより43歳で亡くなった高市皇子が浮上し、69歳で亡くなった阿倍御主人はやや苦しくなったというが、まだまだ結論するには情報不足。百済王昌成も有力。壬申の乱で天武天皇とともに戦った高市皇子や阿倍御主人は、屈強な男性との鑑定結果にも符合しそう。
付記その2(2005.06.28):6月27日、文化庁は壁画の劣化が進んでいる高松塚古墳の保存策として、「石室解体案」の採用を決めた。解体を着してから修復が終わるまでには10年以上の歳月がかかる見通し。


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